その恋の中身。「岡本太郎の沖縄」を観て
今、沖縄の桜坂劇場で「岡本太郎の沖縄」っていう映画がやってて観てきました。
先日、他媒体で映画の記事依頼とご招待をいただいたのですが、私、岡本太郎のことを大して知らない..。からの辞退。われながら情けない。しかしご好意でチケットだけもらえたので、こちらの個人ブログの方で観た感想を書きます。
沖縄は私にとって恋のようなものだった
今回は映画のキャッチコピーでもある、岡本太郎の言葉。
「沖縄は私にとって恋のようなものだった」
これをテーマに話をしていきたいと思います。
私は現在、沖縄に住んでいます。
2014年に東京から沖縄へ移住し、現在、夫婦でブロガーみたいなことをして糊口をしのいでいます。32歳のおじさんです。
小学5年生の頃、沖縄へ旅行へいったのをきっかけに、ビビビッと沖縄好きになり、いつか移住したいと考えて17年。28才でうまいこと望み叶って沖縄へ移り住んだ人間です。
まさに私も沖縄へ恋をしたひとりなんですね。
さまざまな人生を経て、たどり着くかのように沖縄に住処をもつ沖縄移住者。しかしながら、沖縄を選んだ理由を聞かれると、きちんとそれを説明できなかったりします。
「海がきれいでー」
「あったかくてー」
「人がよくてー」
とか、結局やっすいセリフが口から出てきて、まぁそれも正解なんですけど、正確ではない。かといって自分の心に真摯に向き合い、深く緻密に沖縄へ惹かれた理由を語れるボキャブラリーもない。沖縄を好きになった理由って、意外と言語化が難しいんですよね。
そんな私たち移住者にとって言葉にできない「恋の中身」。
これを、岡本太郎氏はみごとに言葉にし、写真としても映しとっています。
つまり映画を見たら、私が沖縄を好きになった小学校5年生のときの「ビビビッ」の中身が語られていたんですね。
これは本当ビックリしました。
岡本太郎のことよく知らなかったけど、「うわすごっ」て思いました。
岡本太郎にとっての沖縄
恋の中身を説明する前に、岡本太郎と沖縄のことを何も知らないと、語れるものも語れないので少し調べました。解説します。
芸術家としての岡本太郎と、民族誌学者としての岡本太郎
まずなんで芸術家が沖縄を語ってるんだ?って疑問が湧きません?
私もそもそも岡本太郎って人をよく知りません。
「芸術は爆発だ」
「太陽の塔」
などが有名な日本を代表する芸術家さん以上ってなものです。
芸術家としての岡本太郎がどういう人か一言であらわした情報がなかったので、私の個人的な視点でまとめると、
生命とはなにか。
その本質に近づく表現をもって、人の心の解放と、自由を主張した
社会の仕組みがもつ権威とか構造とか、そういうのに堂々反発して、みんなの価値観をリフレッシュさせた人なんですね。
そうですね、余計になんで沖縄?ってなりますね。
実は映画で大事なのは芸術家としてよりは、民族誌学者としての岡本太郎です。
岡本太郎は「なぜ自分は芸術をやるのか」を追求する一環でパリで民族誌学を学んでいたことがあるそうで、造詣が深かったんですね。
正確にいえば学者ではないのかもしれませんが、書籍「沖縄文化論」では冷静に、そして鋭い観察眼を発揮して、沖縄の民族性を説いています。
辺境の民族に対する理解も深いというか、眼差しが優しいというか。記録写真もすごい情報の切り取りかたが素晴らしいんですよね。もうエスノグラフィー大好きおじさん的な印象..。失礼か。
でも好意が生まれました。
少なくとも私は芸術を爆発させている岡本太郎よりも、沖縄の観察・洞察を進めている岡本太郎の写真や言葉が好きです。
岡本太郎が沖縄を求めた理由
そんな素晴らしい感性をもった民族誌学おじさん岡本太郎は、1959年、1996年の2回、沖縄を訪れています。沖縄には平常、岡本太郎が究めようとした問いの帰着点があったのだといいます。
その問いとはこれ。
「日本人とはなにか?」
「自分自身とはなにか?」
アイデンティティを求める旅の帰着点が沖縄にあったんですね。
何を隠そう「沖縄への恋の中身」も、上の問い「私たちは一体、何者なのか?」への返答が垣間見えたからに他なりません。
「沖縄には忘れられた日本がある」
とさえ岡本太郎は映画中で言っています。
岡本太郎は沖縄でいったい何を見たのでしょうか?
何もないことへの眩暈
岡本太郎が沖縄について素晴らしいといった点はいくつかあります。
- “何もないこと”の素晴らしさ
- こだわらない、しかし投げやりでもない質実とした沖縄の生活
- 思わず嬉しくて踊る、その踊り(行為)の美しさ
などなど。しかし、その中でも沖縄移住者である私としては、「何もないこと」、この素晴らしさこそ、「恋の中身」を語るに大事だなと思います。
岡本太郎はまず訪れた沖縄(と八重山)で、とにかく何もない様子を存分に目にします。
- 沖縄の御嶽の石一個の簡素さ
- 宮古島のソテツ地獄の様子
- 天災によって村が無くなる様
- 島ちゃび(離島苦)の青年たち
- 人頭税で資源を奪われる歴史
沖縄は今でこそ都市開発も進み、日本でも人口増加+経済成長するイケてる地方ですが、本来は「辺境」と呼ばれる場所。
南の果てにある小さな辺境の島なんですね。
風光明媚な絶景を見れば楽園と称されることも多いですが、土地は痩せてて、どうしても資源に限られますし、毎年いくつも大きな台風が来ては家を壊し、水不足・飢饉とも常に隣り合わせになります。土壌としては、楽園とは程遠く人が生きていくのもやっとの場所。
少し前までの沖縄の特に離島にいけば、茅葺の本当にわずかな材料で作った家に住み、飢饉となれば毒のあるソテツをなんとか加工して食べ、命をつなぐような状況もあったわけです。
そして島の位置を見れば、周辺国に圧迫され、常に奪われてきた場所。その苦しさは歴史が物語っています。
そんな窮地として沖縄を見れば、たしかに人が生きていくのには、あまりにぎりぎりで、過酷なところなんですよね。
かくも何もないところが日本のなかにあるものか、そう思う一方で、岡本太郎は、その「無さ」こそが、沖縄の文化を語るべくポイントであると考えます。
みえなど考えてもいないのに、結果は偶然に美しい
それは例えばハダシで歩く島の人々であったり、無造作にただただ積み上げられた石垣であったり。はたまた、島でまめまめしく働くシワを刻んだお婆さんであったり。
生活のぎりぎりの必需品
それなしでは生きられない
生存のアカシとしてそこにある
大地にへばりついたようなもの
絶体絶命の生命の流動
意識されない生活のために繰り返されてきた営み、そのものがもつ美しさに、岡本太郎は心打たれます。
みえなど考えてもいないのに、結果は偶然に美しい
、言われて見れば、たしかに、そういった姿が沖縄にはアチコチにあるのです。
辺境に生きる人々の強靭な魂と、軽やかな精神
何もない辺境。
生きていくためにぎりぎりの場所。
最低限の住処を建てて、有毒植物のソテツを食い、ボロボロの服をまとい、裸足で歩き、それでも人頭税をかけられ、奪われ、苦しみながらも、それでも生きたい、ぎりぎりで生きていく人々。
過酷に命をつなぐ沖縄の人々は、なぜか軽やかでいて、とても朗らかに明るいのです。その人間性の根底部分が「何もなさ」から生まれているんだと、そこに岡本太郎は魅力を感じているようです。
最低限でいい。
生きるために必要だからあるだけ。
それ以上もそれ以下もない。
ぎりぎりの窮地で培われた「生活のための魂」みたいなものです。強靭で手段を選ばぬ貪欲なエネルギーと、気取らずこだわらず、底抜けに明るい軽やかな精神が織りなす生活様相。
これ、たしかに現在でも、私が住んでいる沖縄生活のなかで垣間見ることができます。
実際は色々な人がいるので、「沖縄の人」って言い方、あんまり好きじゃないんですけど、もしそういう括りがあるとしたら、たしかに沖縄の人は辺境に生きる人々のもつ強靭で軽やかな魂を持っているなと思います。
全然こだわりないんですよ。
でもいい加減じゃないんです。
生きるってことに対して実直な姿勢があるんですよね。
そしてやっぱり朗らか、軽やか。
何もなさから生まれた魂に根付くような精神性に出会うと、たしかにどこかで心救われ、安堵して、そして惹かれている自分がいるな、と感じます。
それは沖縄に対するひとつの恋の姿なのかもしれません。
“空っぽさ”を重ね合わせる沖縄移住者
ついでに個人的な解釈をいえば、沖縄への恋の中身には「精神の空っぽさを重ね合わせてる」っていうのがあるんじゃないかと思います。
日本人の精神って精神の中核が空っぽなんだと思います。
見栄もない、哲学もない、愛もない。
神様は隣人くらいの感覚だし。
自然崇拝も恐れであって自分ではない。
そんな空っぽさって、普通は生きる上で空虚さをもたらすんですけど、ここ沖縄では前向きなことなんですよね。
辺境で生きていく過酷さに打ち勝つために生まれた精神性として活かされるんです。
辺境では生きるっていう「手段」を「目的」にしてるから中核が空っぽな方がいいんですよ。
ちょっと言ってる意味わかんないかもしれないんで、超ざっくり補足すると、西洋的な精神でいえば、生きること自体は「手段」なんですね。
本来の生きる目的としては、どう生きたいか、なぜ生きるのか、そっちに答えを持っていることが大事。
なんのためにあなたは生きているの?
グローバルの場だとこういうのリアルに聞かれそうなこの問いへ答えを持っている必要があるんです。
で、自分自身の魂の中核みたいなものを確かめるこの問いに対して、西洋的な精神の人は自分の答えを持ってるんです。
でも日本人って持っていないでしょ(もつ必要がないと感じてしまう)。
持ってないですよね?
そういう空白に対する怯え、不安が、現代の日本の人々にはあって、それで今の姿かな、と思います。
でも辺境では生きるために生きないと命をつなげない。だから精神の中核を空っぽにして、周囲のあらゆる資源物と紐づいて、ぎりぎり糧を得るんです。
まさに、生きるために生きている。
なんのため?
生きるために生きてるんだよ!
別に俺(私)の存在理由なんてないよ!
自分の中核? 何言ってんの笑
ないよ空っぽ空っぽ!
それでいいじゃねーかガハハ。
さて漁に行かなきゃ。水くまなきゃ。畑、畑。
って感じなんです。そういうメッセージが沖縄で暮らしていると、なんとなく心に届きます。その軽やかさ。屈強さ。前向きさ。
空っぽさに怯えず、むしろただ生きてることに安堵感があります。
愛想笑いとか、無宗教感とか、集団文化とか。
顔のない日本人なんて国際的な場では言われるけど、でも、それって辺境の命が紡いできた大事な大事な精神性なんじゃないかと思います。
良いとか悪いとかではなく、そういうものなんだ、と。
沖縄にくると何となく腑に落ちる感覚が芽生えて、その不思議な気持ちが沖縄への「恋の中身」なんじゃないかなって思います。
あと私の恋の中身もだいぶ空っぽだった
で、最後に、まぁもうひとつ考えてみるとですね。
私、沖縄好きになったの小5の頃なんですよね。
小5でそんな精神の深いところで共鳴しませんわね。
空っぽさなんて重ね合わせた覚え、ありません。
私の実際の沖縄好きの理由は、オカヤドカリと大きいカニがいたからです(甲殻類好き)。
興奮して、沖縄最高ー!ってなって、それから沖縄が好きです。
今もオカヤドカリが好きで、よく浜辺で観察しています。
以上、しょうもない感じで、その恋の中身の解説を終わります。
興味がわいたら観てみてください
「岡本太郎の沖縄」のドキュメンタリー映画は、氏が沖縄へ訪れたときに撮影された写真と、洞察として書かれた書籍「沖縄文化論」をもとに作られています。
沖縄の信仰や人々の心のあり方について、そして沖縄がもつ不可思議ともいえる魅力について、氏の見解でわかりやすく解釈され説明されています。沖縄の精神性や土着感を理解するには、まずうってつけな映画だといえるでしょう。
アイデンティティをめぐる岡本太郎の「眼差し」にも注目。
撮影された写真がまるで彼の視線だと感じられる部分もあって、見応えあります。
沖縄移住に興味があるかたも、自分と重ねてみてみるのは面白いかもしれません。
映画は那覇市の桜坂劇場で上映されています。
チケットは当日で1700円。2019年1月は上映されてます。2月は調整中なので未定(2019年1月上旬時点)。上映の時間帯はサイトをみてください。