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素人が長編小説を書くためにやったこと

小説を書くためにやったこと

誰でも最初は「初めて」です。

小説を完成させるのって思った以上に大変ですよね。

これから初めて長編小説を書こうとしている方へ向けて、私が長編小説を書くためにやったことをご紹介します。

小説技術よりも「書き切るための対処」を学んだ

私は素人ながら先日、『浦島二郎物語』という21万3千字の長編小説を書き上げました。

「小説を書きたい」と思ってから完成まで約4ヶ月。

小説の書き方についてもたくさん調べました。
で、気づいたんですけど、小説の書き方について技術的な情報は巷にあふれていますが、実際、小説を書き上げるにあたってはそこまで重要じゃないんですよね。
(もちろんお作法的には大事ですが)

小説づくりの初心者にとっては、

「どのように書くか」

よりは、

書き切るために、どうやりくりするか

こっちの方が大事だったように思います。

初めてのマラソンを完走したいなら、「そもそもストライド走法とピッチ走法の違いとは..」とか理論を熱心に学ぶより、「30km地点は超辛いから事前に水分多めにとろう」とかの対処法を学ぶ方が有効である。

的な発想ですね。

その発想で考えると物書き常識ではこうみたいだけど、素人が初小説で実際やるには向かないとか、逆説的に取り組んでみたらうまくいったこととか、そういう事柄とたくさん出会いました。

というわけで、書き切ることを主題に小説を書くため私が施して有効だった策をご紹介します。

ストーリーにモチーフを借りた

まず小説を書くっていっても、いきなりオリジナリティ溢れるストーリーをちゃららっと書くのはやめようと思いました。

ストーリーにモチーフを使うなんて独創性ないって思いがちなんですが違います。

物語って作者のメッセージみたいなもんですよね?
ってことは固い言い方すれば情報伝達なんですよね。小説って。

だから相手が汲み取れてナンボ
無名の人が、いきなりオラオラ自分の言葉と物語を押し出しても、読み手とすれ違うのは目に見えてるなと思いました。それにモチーフがあればストーリーを展開する促進力が得られます。元の物語があれば「外し」の概念も出てきます。やりようはいろいろあります。

独創性をどこに表出させるか

小説によって何を伝えようとしているのか。
そういう部分に独創性がきちんとあれば、どのような形式をとっても物語はきちんと伝わります。

私の場合、何かしらのモチーフは駆使しようと思い、考えていたら「お伽話」ええやんってなり、浦島太郎のモチーフを借りました。

おかげでストーリーにみんな知ってる「ウミガメを助けて龍宮城へ行き、玉手箱もらって帰る」という極太の骨子ができ、その制約のおかげで物語を進めるときもだいぶ助かりました。

※ちなみに話をパクるのとは意味が違います。パクリはダメよ。パクリは。

書ける文体で書いた

例えば私は「村上春樹作品」が好き。
なのでじゃあ、文体もあんな感じでかっこよく書きたいな〜、と平和に思っていましたが、速攻でやめました。

いつも書いているブログのノリみたいな文体で、物語を進めることにしました。

文体は自分自身を表します。
だからそもそもなかなか盗むのは大変だし、マネしようとしても、やっぱり書いているうちに文体に自分自身が滲み出てきてしまいます。

つまり文体はアレコレ考えずに書ける文体で書くほうが良いです。

こと素人が書く場合は、文体をマネることこそ独創性ない感じになります。文章も書きにくいし疲れて小説も書き進められません。そして結局、小説は文体で伝えるのではなく、小説全体で自分のメッセージを伝える行為です。

作文みたいな文章しか書けないなら堂々、作文で書けばいいし、ギャル語で書いちゃうならギャル語で書けばいいです。

文体を策略的に変えるのは多分、プロフェッショナルに近い人がやるテクニカルなことなんだと思います。「小説を書く」という堂々たる主題からは少し外れているので、書ける文体で書くことにしたら楽に話を進められました。

曖昧な物語を作った

世の中には物語の展開パターンっていうのがあるんですよ。

関連ストーリーは感情の振り幅のパターン。キャラクターは強さと弱さのギャップ。|京都式カメラ|谷口マサト|note

これなんてストーリーは6パターンに落とし込めるって書いてあります。

物語の感情曲線

こういうのって鉄板なんです。覆しようがない。

だから素直に従って王道の物語にするかっていうと、これも素人が長編を書くにあたっては落とし穴になるなぁと思いました。
長い物語をこの曲線に沿って管理するって、考えただけでも大変ですよ。絶対、力尽きる。プロットだって完成させるの大変なのに。

だから素人がやる場合は、複数パターンを部分部分に織り込むよう考え方を変えました。

散りばめた

ちっちゃいのいっぱい入れる的なことですね。

展開を保持する体力ってあるんですよ。感動なら感動で30万字分、ドカンと一個、展開させられる力がある人はそうすれば良いと思います。

でも私みたいにない場合、小さな起伏を散りばめるでも物語としては成り立つなと思います。そしてどちらの方法に優劣があるって訳でもない

大事なのは自分の小説に相応しいかどうかです。浦島二郎小説は割と浦島太郎の物語骨子がインパクト大きい分、そこを変えるために小さな起伏をたくさん作って、曖昧さを出し、「浦島二郎としての物語」が全体を通して見えてくるようにしました。

プロット作りを諦めた

小説の書き方を調べると真っ先といっていいくらいに「プロット」の存在を知ります。

プロットはストーリーの要約。
ストーリー上の重要な出来事をまとめたもの。
物語上で起こる出来事の原因と結果(因果)を抜き出し整理する。

これが物語の骨子になります。

じゃあ絶対、作らなきゃいけないのかというと、経験上、そうでもありません。簡単な箇条書き程度で十分。むしろ因果関係をきっちり作り込もうとすると、かえって小説が書けなくなります。(素人は複雑なプロットを頭に入れて小説を書くと、大きく疲弊しちゃうんですね。)

私は最初、「よーし、プロットかー!」と意気込んでプロット作りを始めましたが、途中からプロットが小説みたいになり始めて、本末転倒感が出てきてやめました。

ヘタクソの極みです。

素人なんです。書きながらでも良いじゃないですか。

私はむしろプロットを起こさず物語上の空白・余白を残して書いたおかげで、小説が思わぬ様相を見せる場面に遭遇でき、書くことの不思議な面白さを実感できました。

キャラ設定も諦めた

例えば浦島二郎物語には乙姫さま的なキャラが出てきます。
で、そのキャラ、最初はヤンキー的な性格にしようと決めて書き出したんですけど、話が進むにつれて彼女の「話し方」が、わりと普通になってきちゃったんですよ。

普通に考えたらこりゃあかんなと思って書き直し掛けたんですけど、その途中で「違うな」と。

ヤンキー的な性格ではあってほしいけど、そこが一貫する必要あるのか?と考えました。
だって一貫してなくても書きたいことの本筋とはコンフリクト(衝突)しないんです。なのでちょっとキャラ、ブレたかなと思いつつも書き直しかたをソフトにしました。

結果、書き終えて読んでもらった人から誰もツッコマれてません(あんまり読まれてないからっていうのもあるが…)。

人格って複雑です。
キャラ設定はたしかにある程度は大事かもしれないですが、性格をパターンに落とし込むと人間味が消えるのも事実。そしてキャラに沿って物語を進めていくのって、けっこう、気を揉んで疲弊するんですよ。書いてて思った。

結局、大まかには決めておいて、あとは書きながら登場人物の複雑な人格性が(結果的に)作り上げられるって方が、素人にはやりやすいです。

先に章の見出しを書いた

プロットを諦めたところと連動しています。
先に「章の見出し」を書くことによって、直線的にシンプルに物語を把握できるようになりました。

見出しはあとで書き換えたり、追加・削除したりOK。あくまで書くときに先の展開を想像できるためのガイド(補助線)みたいな役割です。

例えば、浦島二郎は全部で57話なんですけど、最初は30話前後の予定でした。書いてる途中で「こりゃ長くなる予感がする!」と考え、中盤〜後半にもうひとつ山を作った結果、27話も増えちまいました。
増えすぎだよな。

自分の構成力のなさを嘆くばかりですが、「書き切る」って観点でいえば、これでも良かったなと思います。

「誰が何を起こしてこうなった」と先んじていくつも書くより、見出しのタイトルを書いて、それに沿ったストーリーを展開させていく方が私はやりやすかったです。

ちなみにプロット含め、この辺の構成の仕方は人によってやりやすさが違いそう。
好みの方式を選んだ方がいいと思います。

「マヌケる」箇所を作った

マヌケる」って自分で勝手に用語を作ってるんですけど、こと長編の物語ってずっと真面目だと読み手がどうしても疲れてくるんですよ。

ずっとヒューマンサスペンスとか展開されちゃうと、「悪くないんだけど、ちょっとコーヒーでも飲んで冗談でも言ってよ」と思ってしまうのは人間の仕方ないところ。

だから「気の抜きどころ」として間抜けっぽいところを織り交ぜることは大切です。

つまり、マヌケる。

私の場合は主人公の浦島二郎が「やたらツッコミを入れて滑る」人だったので、特に工夫しなくても全体的に間が抜けてましたが、後半で物語が差し迫ってくると二郎も冗談言ってる余裕ないし、他の人もそんな雰囲気じゃないしってことで、「おばば」という人物を登場させています。

「おばば」については『浦島二郎物語』の本文を読んで確認してみてください。だいぶ後半にいますので、適当に読み飛ばして後半をどうぞ。

全体を通して・・・力を入れなくて良い場所を探した

長編小説の大変さは「体力」に尽きると思います。

これだけ色々なことを頭で考えて、試行錯誤して、物語を紡いでいくのには、とんでもなく体力が必要となります。

肉体的な疲れもそうですが、「知性の疲れ」も起きてきます。
健康的だったストーリーに不健康な様子が入ってしまったり、急に展開がもたついたり、逆に呆気なくなってしまったり、書いていても多くの(著者個人的な)事件に遭遇してしまい、それを解決するのにもまた体力を使います。

だから真正面からドドンと「長編」へ向き合うっていうよりは、「真に「長編」へ向き合うために「不要な力み」をなくす」、そっちへ強く意識を向け、工夫をしました。

初小説は約4ヶ月で書いた…が

浦島二郎物語』はだいたい、4ヶ月で書きました。初めて小説を書くにしては、なかなか良いペースかなと思います。

が、しかし。

そもそも小説を書こうと思い立ったのは年の初め。

そこからモヤモヤとアイデアを練り。ちょっと書いてみちゃあ「アカンアカン!」とボツにして。やっぱ小説とかやーめたと空白期間を開け。そういうチョロチョロ小賢しいのを経た上で4月後半から9月の頭に向けて書ききった感じなので、4ヶ月が本当にそのまま当てはまるかっていうとね。

そうでもないですよね。

まぁでも色々な苦労を経て、腰痛にもなって書き上げた小説ですから愛着はあります。

小説を書くって本当に大変でエキサイティングで楽しいです。

これから小説を初めて書く人がいらっしゃるとするならば、特に良いアドバイスなどはできないのですが、本当、完成したら乾杯しましょうねって。そう思います。心から励ましを申し上げたい。

それくらい小説を書くって大変だし、素敵なことだなと思います。

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